昭和五十年九月三十日
x御理解第七節
天地金乃神は昔からある神ぞ途中から出来た神でなし天地は流行る事なければ終わりもなし天地日月の心になること肝要なり信心はせぬでもおかげはやってある。
天地金乃神は昔からあるということ、天地は流行る事もなからねば、終わりもないと言うこと、天地日月の心になることが肝要であると言うこと、信心はせぬでもおかげはやってあるということ。
断片的な感じですね。天地の親神様は途中から出来た神様ではないと、流行る事もなからなければ終わることもないと、天地日月の心になることが肝要だと。信心はせぬでもおかげはやってあると。
そのいずれものことが実感としてわからせて頂くために、天地日月に心になることが大事であります。天地日月の心になること、肝要である、もっとも大切なことというてある。でないとどのことでも成る程信心はせぬでもおかげは下さってあると言うことも、天地が悠久であると言うことを、流行る事も、終わる事もないという事も私はわからないとおもいます。
本当にはどうでも天地日月に心になることが肝要だと。
昨日は教祖生誕祭で、賑やかなお祭りに引き続いて懇親会の方達への余興がございました。
大変熱演していただきましてまあ上手とか下手とかを言うより皆さん一生懸命やるというのが良いですね。一生懸命にやられる、と言うところが素晴らしかったと思うのですけど、終わりましてから、御直会のときに花語りをされたあの人は何とか言う、相当若いときには有名な、浪花節語りさんだったらしいですね。芸歴五十三年という、それで大体年がわかるです。
それから太夫の人も芸歴四十何年というから、あれでもう随分年ですよね。花千代さんがもう今年が五十年になるそうですから三波春夫さんを呼んで、芸歴五十年の何か記念の大興業をやりたいから、是非成功します様にというて、お願いして行かれましたが殊に此の一つのことを四十年、五十年とやることは大変ですね。そして思うのですけど、やり続けて五十年なら五十年やり続けて、これこれの成果が上がったという人と、でない人とあるということです。
信心でもそうです信心五十年の信心が続いた教会でも五十年なら五十年の記念祭、と言うときには本当に布教当時の事を思うなら夢の様な、おかげを受けて行かれる教会と五十年たっとっても大したことのない教会、とやっぱりあります。またそのいずれもがです。結局私は天地日月の心になること肝要だと言うことに焦点を置いていないから、他のことがバラバラになっていると思うです。天地金乃神は昔からある神だと言うことも、天地は悠久だということも、流行る事もすたることもない事も、又信心はせんでもおかげはやってあるということも、しっては居るけれども、肝心要の天地日月の心になることがです、それに肝心の所に取り組んではいないからだと私は思うんです。
昨日直会場に一番初めにその花語りをしたその人が、私に質問するんです、先生あそこに生神様でしょう、確かに生神様が書かれたのと思うのですけど「信心のけいこ」と書いてあるのはどう言うことですかと言うのです。と一番口に聞きました。信心の稽古というのはそうですね、まあ私は人生様々のことにある、どんなことがあっても、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと嬉しいこと、様々あるのですけど、其の全てのことがですね、其の全ての事をとうして信心の稽古をする。私共が苦しい事があるなら、その苦しいことを通して苦しい事といいません、これによって、信心の稽古をさしていただく事によってお道の信者は申します。その方もその事を聞いて、ああ今日は大変な事をききました、というのです。
というのは、あの人の師匠は京山小円という素晴らしい名人がおりました。その方のお弟子だそうです。その京山小円というご夫婦が大変熱心な金光様の御信者であった。御本部は勿論、月参りをするようになさったそうですが、こういう事がございました。浪花節語りが上手下手というかね、番付けが出来るときにね、もう声が止まってしまって、いよいよどうにも出来ないので、奥さんがお取り次ぎをなっさってお願いをなっさった。その時にね、もう不思議な、不思議な声がでたそうです、其の当日に。そして明くる日からまたパタッと止まったそうです。もう私はそれを目の当たりに見ていて、その御利益を、あらたかさを知りました。
教祖様の御理解に漁にでた漁師達が時化に遭ってその中に一人の信者が居って一生懸命に金光様を念じたそうです。ところがその船が矢を射る様に自分の帰らなければならない港に着いたという話をです、私は師匠から聞いとりましたが、ほんに不思議なことがあるもんですね。とこういう訳です。本当にそうですよ、合楽あたりでも、ただ普通では考えられない本当に奇跡と言う様な、これは私自身も不思議でたまらんと言うような、そう言うおかげを頂いて、合楽教会はこういう風に大きくなったんですよと、話した事ですが、そうでしょうね、そうでなかったらとてもこんな大きなお教会はできないでしょうね、というような、まあいうわけです。そしてなお話をするのに、京山小円という方は大変女癖が悪かったそうです。ところがね女が出来て失敗するたんびに、芸が上がった、というのです。何か其処にです、その何事かあるたんびに芸が進んだという話を昨日しとります。
今日私はこの御理解第七節を頂いていつも申します。天地が流行る事もなからねば終わりもない、天地金乃神様は昔からある神様です、と信心はせんでも皆におかげはやってあると言うことを、そう言うことの内容と、と言うことはどう言うことかという風に、聞いて頂くのですけど、今日は私は、どの事でもです、どの事を理屈が分かってもです、天地日月に心になること肝要だというならば、一切が信心の稽古と言うことです。天地日月の心という事はね、どういう事があっても、その事を難儀であっても難儀としない、真を持って、信心の稽古をさして貰うと言う生き方が身について来るとです、必ずその節のたんびにおかげを頂くということです。これはどこの教会でも五年、五年の記念祭にはお部屋が綺麗に成るとか、建て増しをするとか、増築をするとか、今度親教会でも七十年という教会の節にお広前の建築を、いわゆる御造営の○○○○○その節のたんびにおかげを頂いて行くのが金光教の信心です。何かあるたんびに信心が萎縮する。大きな節に当たるともうそれで萎縮だけでなくて挫折する。これではのびようがありませんね。私は皆さんに天地日月の心は限りなく美しうならせて頂こう、それはねなかなか一遍に美しうはなれんのです。いうならいっぺんに欲を放す事は出来んのです。少しずつ放れていって、放れていくことの、いはば体験が生まれて来るから、また我情我欲を放して行くことに精進するにです。問題がある、難儀ある、たんびに我情我欲が取れて行くから、節から芽が出る。節から伸びるというおかげが頂けるのです。
如何に天地日月の心と言うものを、私共が本当に中心にしての信心でないかと言うこと、いうなら全てのことを信心の稽古として、稽古のそれを材料として行っていないかと言うことがわかります。地の心、もうそれこそ、どう言う事でもじっと我慢しとけというのではなくてじっと大地の様な心で、黙って受けて受けて受け抜く心で受け抜くと言う事はです、そういう受け抜く時に信心の稽古をするのです。改まらない所を改まって行く、放さなければいけないものは放していく。それが地の心です。しかもそれが日月の様な正確さ、正確無比の日月の心を、心とする。それを実意丁寧というのです。そう言う生き方をしんにしておる、例えば教会ならばです、もうそれこそ記念祭のたんびに今言うようにいよいよのびていくでしょう。大きくなって行くでしょう。これは教会だけじゃありません。めいめいの上にだってそれこそ京山小円師匠が何か其処に、まあ女の人が出来る、次から次と替えて行くのではなくて、次から次とそれをなくしていく。なくしていくたんびにその芸が上達したと言われるように金光様の信心をさしていただくと不思議なことがある。でない筈の声がです、其の審査のその日だけはもう不思議な声が出たと言うことは、昨日あの花千代さんも言っていたです。私は昨日のごたる自分ながらあげなよか声がでたのは初めてだ、といってました。私共何遍か此処に来るたんびにやりますけれどもね、昨日のような声はなかったでしょう。よかったでしようが。自分でもそれを言っています。ああもう合楽。それがねとにかくあの舞台に上がるとね、芸人というものはもう一心になれそうです。只、御直会のときに一つ出しなさいといったってね、素人さん以下の声しか出らん様な感じがするそうです。けど昨日は私は、其の舞台で合間をつとめられた訳ですけれども、昨日は私はもう自分ながらですね、本当に神様のおもいました、もう調子の良かこつ、良かこつね、相方もうまかったでしょうがね、あのときは。にもかかわらず素晴らしい声が出たと自分でも言ってますが京山小円さんの場合だってそうだったとそういうおかげが頂けると言う事が分かって居るから信心はやめられんと言う事ではいけんのです。あん時はあげなおかげを頂いた、それこそ夢よもう一度言ったような、その特別のおかげを頂いて、そうゆう夢のような信心ではだめです。
それこそ日々が信心の稽古、何かがあるたんびに、信心が進む。と言うような、ね、しんじんでなからなければ、私は今日の天地金乃神は昔からある神とか、または流行る事もなければ終わりもなしとか、信心はせんでもおかげはやってあるという、一番大事なところのありがたい感じと言うものが、只時に奇跡的なおかげを受けて居ると言うだけでは頂けないと思うのです。どこまでも天地日月の心に成ること肝要だと、そういう信心がシン。
今日この天地日月の心という事を信心の稽古という風にきいていただきました。
全てのことをそれは難儀ではない、それによって信心を一段と進めて行くんだという精進を持って、そう言う精神を持って、それが根底にある限りです、この御理解七節に言うとられるすべてのことが「感」として分かっていくと思うのです。いうならばおかげをおかげとしていただいて行くこととおもうです。昨日の生誕祭の余興の浪花節じゃないけれども、今日は大変なおみやげが出来たと言っております様です。私も其の話を聞かして頂いて、いうなら今日の御理解に繋がって居ったわけでございます。
どうぞ